住吉病院の特徴
住吉病院は、公益財団法人住吉偕成会の医療部門として、56年の歴史をもっています。
甲府市の南部に位置し、富士山、八ヶ岳、甲斐駒ケ岳等の霊峰に囲まれた緑と水に恵まれた地域で、精神科医療専門に活動しています。
主だった特色として、作業療法、デイケアをはじめとして、法人内に併設されている各種社会復帰関係施設(生活訓練施設、通所授産施設、生活支援事業施設、就業生活支援センター等)による、ご利用者の求めに応じた各種支援計画の作成と実施、各種支援活動が可能となっていいます。
また、アルコール症の治療の歴史は古く、アルコール専門病棟(精神科急性期治療病棟)における、専門プログラムは各方面から高い評価を得ています。地域における断酒会等への地道な活動が、ご利用者の地域における回復につながっています。精神科の基本的な対応の中心的な拠りどころとなっています。
ご利用者の社会参加において欠くことのできない就労についても、院内に産業カウンセラーやジョブコーチを配置して、外来受診の段階から、ご利用者のご要請にお応えして、ハローワークをはじめ各種関係機関との協力を得て、就職に向けた各種対応を、早い段階から実施しております。
一方、段階的に就職に向けて、各種の能力を開発したいというご利用者に対しては、法人内にある各種活動訓練場所をとおして、就労に向けて支援をしています。
その他の活動として、摂食障害当事者の会・家族の会、薬物依存ミーティングなどがあり、10年を越える活動をとおして、ご利用者の輪が広がっています。
精神科の薬剤師外来は、全国的にも例がなく、東邦大学薬学部元教授による、最新の精神科医療における薬物療法に関する情報の提供ができます。
- 適格な診断と早期回復に向けた対応
- 当事者との共働による回復支援活動
- 処方薬剤の単剤化
- 薬物療法、リハビリ活動、及び就労支援等による総合的かつ効果的な対応(治療)
- 薬剤師外来
- アルコール専門治療
- 摂食障害対応
- 就労支援による効果的回復
- 先進的な訪問支援
名誉院長挨拶
昭和60年岐阜大学医学部を卒業し、同年慶應義塾大学医学部精神神経科学教室、慶応義塾大学病院精神科における研修を経て、山梨県立北病院精神神経科に勤務したのが、私の精神科医として出発点です。
県立北病院在籍中は佐々木重雄院長・功刀弘副院長・藤井康男医局長各先生をはじめ、多くの諸先輩方からご指導を受け、当時は県内で初めてとなる北病院のデイケア開設に微力ながらかかわりました。同時に地域の機関の皆さまにもご指導をいただきまして、精神科地域支援とリハビリテーションの基礎を身につけました。
平成2年、再び上京して桜ヶ丘記念病院精神科で勤務し、山内惟光・佐藤忠彦両院長のご指導のもとで、デイケアを含むリハビリテーション全般を担当し、東京デイケア連絡会の運営委員長を務めさせていただきました。また、日本精神神経学会精神保健・医療・福祉システム検討委員会委員、日本病院地域精神医学会評議員から理事を務めさせていただき、地域におけるメンタルヘルスのサービスとシステムに関する研鑽を積んでまいりました。
そして平成19年8月に理事長松野正弘先生、前院長佐々木重雄先生よりお誘いを受け、再び山梨の地に戻ってまいりまして、当住吉病院の院長職を拝しました。私にとっては、山梨は精神科医としての原点であり、第二の故郷に帰ってきたとの思いを持って、かつてお世話になった地域の皆さまのお役に立ちたい、自分の重ねた経験をもとに、精神の病をお持ちの方々により積極的な貢献をしたいという希望を胸にしての決断でした。
私どもの住吉病院は、昭和45年に、県内で初めてアルコール依存症をお持ちの方の専用の病棟を持って以来、この疾患への医療的関与が伝統となっている病院です。平成5年には県内唯一のアルコールセンターを持つようになり、地域に貢献してきたところです。私たちが依存症の治療にあたるとき、その活動の芯となるのは「自己決定権の尊重」「チーム医療」「当事者の方にそなわっている力を信じること」「症状を消し去ることではなく”回復=リカバリー”を目指す」ことでした。そのためには医療者のみならず、ご家族も、断酒会も匿名の回復者の組織の皆様も、それぞれが尊重され、いわば一つのチームとなってことにあたることが必要でした。アルコールセンターで毎月行われている「行軍」のように、患者様もスタッフも『平場』でともに活動をすることの大切さは、私たちの実践の中から形になってきたといえると思います。 時は過ぎ21世紀になり、アメリカの潮流を受けて我が国の精神医療保健福祉の領域でもさまざまな本や論文でチーム医療が叫ばれ、リカバリー志向が論じられてきました。病の有無には関係なく、人の力を信じることや、その人らしい地域生活のための支援、症状の自己管理、就労などへの支援を通じた社会的な自己価値観の回復支援などが重要視されるようになりました。当法人では、これらはもうずっと前から今日まで、脈々と私どもに継承されている誇りある「伝統」です。
そのよき伝統に支えられ、当法人は病院組織から、ケアセンター、グループホーム、援護寮、地域生活支援センター、通所授産施設、障害者就業・生活支援センター、長期在住型アパートと、さまざまな障がいをお持ちの方の地域生活のための支援を充実させてきました。平成22年に公益財団法人として認可を得たとき、法人は「住吉病院」と「リカバリーセンターすみよし」の両輪となって前に進むようになりました。サービスを利用される方の視点を重視することから、障がいをお持ちの方を積極的に雇用して、全国重度障害者雇用促進協会にも参加するようになりました。『HEART・fullメッセージ2008』にもあるように、法人はすべての人に対して人間愛を持ち「すべては回復=リカバリーのために」との思いを形にした活動をこれからも続けていこうと考えています。
このような伝統を作ってくださった多くの先人の皆様の恩恵を得ながら、新しい時代をみんなで切り拓くためのチャレンジに邁進していきたいと思います。リカバリーとは、結果ではなく過程であると言われています。誰でもがどこからでもリカバリーの道を歩むことができる、そのことを先に進む方から学び続けて、これから歩みを始めようとする方々にそれを伝え、まだ見ぬ仲間の方々のためにメッセージを送りたいと考えています。医療・福祉の現状を見つめると、すべての人にリカバリーへの道筋を伝えるという目標に到達するには、まだまだ道は険しいかもしれません。それでも、常に初心を忘れず、よりよい医療福祉を含む新しい支援法に挑戦し、夢を追い続けたいと思っています。
皆さま、これからも私どもをよろしくお願い申し上げます。
私の今までのささやかな業績はこちらをご覧いただけますと幸甚です。
公益財団法人住吉偕成会 住吉病院
名誉院長 中谷真樹
院長挨拶
― 住吉病院の歴史に想うこと ―
私は昭和41年に甲府市で生まれました。新紺屋小、竜王中、甲府南高校、山梨大学医学部を卒業、同大学精神神経科講座に入局し、研修医1年目で最初に住吉病院に勤務したのは今から34年前の平成2年のことです。それ以前の住吉病院を直接自分の目で見たことはありませんが、当時の様子を昭和60年編纂の「住吉病院30年史」で知ることができます。新院長として、この「ご挨拶」を書かせていただくにあたり、この30年史を読み返して最も印象的だったのは、力強く新鮮で、現在、そして未来への示唆に富む初代院長有泉信先生のお言葉でした。ここではそのお言葉の一部を引用させていただきたいと思います。
「昭和30年11月16日、一部、国よりの補助金を含んだ資金で建設した小さな病院を寄附する手続きを取って、財団法人(医療法人より公共性が高い)住吉病院を設立した。」
昭和25年に精神衛生法が施行され、国からの補助金もあって多くの民間精神病院が作られました。昭和30年代は‘精神病院ブーム’と言われたほどで、住吉病院もこの時代に設立されました。住吉病院がユニークなのは、信先生が自身の病院を「寄附する手続きを取って財団法人にした」というところです。そして現在の住吉病院は平成22年に行政庁の公益認定を受け、さらに公共性が高い公益財団法人となっています。公益的事業として認められるのは「学術、技芸、慈善その他の公益に関する事業であって、不特定かつ多数の者の利益の増進に寄与するものをいう」とされています。住吉病院はそのスタートから地域社会への貢献を意識してきました。
「患者優先の運営方針を貫き、診療、看護、事務系の何れの面でも、世界の水準に遅れぬように努めて来たのは勿論、、、」
昭和30年は言わば収容主義の時代でしたが、住吉病院はその当時から既に患者さま優先の運営方針を掲げていました。もちろん、その姿勢は今も変わりません。
「世界の水準に遅れぬように」という精神も、現在の名誉院長である中谷真樹先生の最新のリカバリー理論で構築された各種社会復帰関係施設に引き継がれています。ACT( Assertive Community Treatment包括型地域生活支援プログラム)に基づくサービスを提供する訪問看護センター「きらり」、IPS(Individual Placement and Support個別援助付き雇用)理論を元に活動しているすみよし障がい者就業・生活支援センター。そして病院の就労支援部門に加えて、作業療法・デイケアではIMR(Illness Management and Recovery疾病管理とリカバリー)が実践されています。リカバリーとは、「人々が、自分の求める生き方を主体的に追求すること」であり、1990年代にはアメリカ合衆国における精神保健政策の根幹に位置づけられ、2010年代以降は精神医療における世界的な潮流となっています。
「アルコール中毒治療への挑戦、活発な各種社会復帰活動にも力を注いで来た。」
住吉病院でのアルコール医療の歴史は、昭和42年、当時の院長である松野正弘先生が静岡県の断酒会員と交流したところから始まります。昭和45年、第一回院内断酒会開催。昭和50年、入院期間を3か月と定め、昭和52年にはアルコールスタッフミーティング開始。昭和54年、アルコール病棟「ひまわり棟」完成、平成5年、現在のアルコールセンターを開設、とその歩を進めてきました。ちなみに厚生省(当時)によるアルコールへの行政対策が始まり、国立久里浜アルコール症センターが設立されたのが昭和38年です。令和の現在においても、山梨県下でアルコール専用病棟が存在するのは当院だけです。独自の治療プログラムで長年に渡って地域のアルコール医療に貢献してきました。
また各種社会復帰活動の一環として、利用者さまの生活の場であるグループホーム、援護寮、長期在住型アパートが用意されています。ひまわり荘・すみれ荘・さくら荘(グループホーム)では世話人としてすみよし生活支援センターの職員が入居者さまの生活を細やかにサポートしています。
「これ等の成果を可能にしたのは、日本経済の高度成長と重なった求人難の中にありながら、優秀な人材を確保出来たからであると信ずる。」
現代の求人難の主因は少子高齢化による労働人口の減少ですが、当時のそれは高度経済成長であったというところに時代の変化をしみじみと感じます。私が生まれた昭和41年の干支は丙午(ひのえうま)ですが、この年に生まれる女性は気性が激しいといった迷信がありました。そのため昭和41年の合計特殊出生率は1.58に落ち込み、出生数が136.9万人と前年より25%減少しました。かつて迷信の影響を受けても136.9万人あった出生数は、令和5年では72.6万人となる見通しで、合計特殊出生率は過去最低であった令和4年の1.26を下回ると言われています。次の丙午は2年後の令和8年ですが、どんな結果になるのでしょうか。
求人難の中、病院運営ができたのは「優秀な人材を確保できたから」と信先生は書かれています。私は武田信玄公の名言とされる「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」を連想しました。 ― 『HEART・fullメッセージ2008』 私達はすべての人への人間愛の精神を大切に ぬくもりある医療福祉をもって社会に貢献します。 ― これは、住吉病院の理念の根幹を成すスローガンですが、冒頭の’すべての人’には、利用者さまだけでなく、病院で働くスタッフも含まれています。本当に文字通り‘すべての人’なのです。ですので、住吉病院は医療を提供させていただく利用者さまはもちろん、そこで働く職員の方の「心」も大切にします。このホームページを見て住吉病院に興味を持たれた方、私達と一緒に仕事をしてみませんか?人間愛の精神をもってお迎えすることを約束します。
「数年前から病院の運営は、追風の時代から向い風の時代に移ったけれども、我々は建院の精神に則り、心を合せて地域精神医療の為に全力を尽さなければならない。」
現代の日本にも人口減少による国力の低下、医療費の高騰、診療報酬の引き下げなど逆風が吹き荒れています。このような時代だからこそ建院の精神「患者さま優先、努力と挑戦を継続し、世の人達の役に立つ。」に学び、職員全員で力を合わせ、しっかりと前を向き希望に満ちた社会貢献を実践していきたいと思います。
…最後に、いささか唐突ではありますが、いたって真剣に、住吉の2文字と私の名前5文字を使い‘アクロスティック’を作ってみました。
山梨にお[住]まいの皆様、住吉病院にご相談いただくのが[吉]です。
私たちは、お困りの方々に[加]勢し、慶[賀]されるべき[美]しい[真]の[人]生を取り戻すためのサポートをさせていただきます。
住吉病院をどうぞよろしくお願いいたします。
公益財団法人住吉偕成会 住吉病院
院長 加賀美真人