21年

今から21年前の1995年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災が発生しました。

多くの人々の命が失われ、多くの人々の人生が変わりました。私は精神科救護活動にボランティア参加させていただきました。まだ精神科医の社会貢献というものが自分自身の芯になかったころ「誰かの役に立ちたい」「地域で暮らしている精神疾患をもちの方の助けになりたい」という思いは大きく私を突き動かしました。しかし、東灘保健所での最初の1週間ではあまり役立てたという実感がないまま職場に戻ったのでした。

その後も何回か神戸に行かせていただきました。病院の診察室から外に出てその人の人生に触れることの重要性は、それまでの臨床経験で分かっているつもりでした。しかし、精神科医療ではない訪問活動は人と人としてのつながりの大切さを私に教えてくださいました。はじめてお目にかからせてもらった方々とお話しするのは「困りごとの解決法」というよりも「言いっぱなし聞きっぱなし」にちかいおしゃべりのようなものでした。それでも、少なからぬ方々からにぎらわれたり、感謝されたりしていただいたのでした。避難所や救護所の人たち、当時の共同作業所「御影倶楽部」の人々やその周囲の方々からは生きるということの意味をあらためて教えていただきました。

大震災のあった年の年末、御影倶楽部の関係者の方々と西灘公園で師走に餅つきをしました。現地の支援の仲間、職場の同僚も避難所にカリスマ委されている方たちと一緒に楽しいひと時を過ごしました。いつしか一回一回の活動は、何かに貢献するというよりも自己満足的で微々たるもののようにも思われましたが、「誰かのもとに行って一緒にいること」そして「人間の回復力を信じること」という私の根本は、被災地のさまざまな方々から教わったものであることは疑いがありません。そして今、私は、ながく病院に仮住まいを余儀なくされている方への「お見舞い」を仕事にするスタッフと一緒に仕事をしています。医療に「つなぐ」ことを必ずしも目的としない訪問を行うスタッフの同僚でもあります。

今もなお、沖縄で、広島で、長崎で、奥尻で、阪神・淡路で、中越で、東北で、そして全国で、さまざまな被災や被害の傷あとに苦しむ多くの方々のこころの平安をお祈り申しげます。また、志のなかばで、あるいは、精一杯生き抜いて逝かれた方々のご冥福を祈り、またその方々にお会いできるときに、自分がどう生かされてきたかをお伝えすることができるように精進をしたいと思っています。

「世界は心的外傷に満ちている。”心の傷を癒すということ”は、精神医学や心理学に任せてすむことではない。それは社会のあり方として、今を生きる私たち全員に問われていることなのである。」安克昌「心の傷を癒すということ」より

最後までお読みいただいた方、どうもありがとうございました。