3月11日

 11年前の今日、東日本大震災が発生しました。あの日、多くの人が突然その未来を絶たれました。あの日、出張で東京に行こうとして病院を車で出た瞬間、車がまっすぐ進まなくなって「パンクしたのではないか」と当時の事務長が車を路肩に停めてからの長く長く、いつ終わるのかわからないほどの揺れを思い出します。家族に連絡を取ろうと携帯を鳴らしましたが、つながらなかったときの気持ちがよみがえります。翌日早朝に立て続けに新潟と山梨で緊急地震速報が連続されたときに、なにかの覚悟を迫られたことなどありありと思い出します。

 あの頃は予想することもできなかった10年後という未来を体験し、私は今年、いわゆる「定年」を迎えることができました。現在のわが国の平均寿命からするとまだまだ道半ばといったところですが、私にとっては、今日という日は毎年一つの区切りとなる日であることには違いはありません。日々の活動として社会に何か良いことをなすための法人にあることを改めてかみしめてみます。

 大震災の後に原子力発電所の災害で精神科病院が閉鎖され、当地にも入院中の方が避難されてこられたことがあります。当院に転院された方は先方で長らく入院されていた方でしたが、入院を必要としない状態であることがわかり、退院されてご近所に住まわれ、そしてそののちに故郷に戻っていかれたことなども思い出しました。その方をお迎えした日のことでした。その方たちは診療録も散逸してしまっていて、ほとんどなにも情報がないままで当地に来られたのですが、その際に先方から提示された紙には「放射能被爆の心配がない」という紙でした。風評被害がひどくなってきていた頃のことでしたが、私は「それはない」と悲しい気持ちになりました。スタッフは何のためらいもなく、ご要望の一番であった入浴と温かい食べ物、肌触りの良い着替えをご提供しました。

陸前高田市の「奇跡の一本松」

 2022年になり、あいかわらず、この社会は人が人を差別し忌避する情勢になっています。新型コロナ感染症に心ならずもり患された方が、周囲からともに存在することを否定されるようなことが起こっています。施設(住む場所)によっては外界と隔絶されてしまうようなことも続いています。思い出すのは震災後の原発事故の後、体表面の放射線量スクリーニングの結果によっては家族ともガラス越しでの面会しかできない状況になったことを扱ったマスメディアの写真です。

 今、同じことが起こっているように感じます。いえ、健康の側面以外の観点からも人々の分断はさらに進んでいると言わざるを得ないと思います。私は科学を否定するものではありません。ただ、人々をなにかの尺度で切り分けたり、ある正義とまた別の正義の旗印のもとに人々の対話が断絶されることでは創造的な何か、は生まれないと考えています。

United we stand.

最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。