リカバリーってなんだ(その2)

昨日のブログの続きです⇒

精神的困難を経験した人が得る「障害」は本人だけでなくその人の周りの社会との関係性にも起因するという考えがあります。たとえば、社会での差別はリカバリーを妨げます。それは<一般の>市民や専門職、ご家族、さらにはご自分自身といったさまざまな立場から生み出されます。差別によって人たちは社会の中から排除され、自分は価値のない人間だと思いこまされたり、危険な存在という烙印を押されて望まない管理を強いられたりするのだと思います。そのような状況がありつつも、本人が自ら望む生活のために困難を乗り越えることなど、本人が何らかの前向きな変化や成長をなすことをこれまでのリカバリー概念は強調していた気がします。

一方で、ニュージーランドのBlueprintでは、リカバリーはご本人だけにおこればよいのでは必ずしもなく、ご本人の生きづらさの一因となってしまっている人々やシステム、社会も変わる必要があると述べられています。個人がよく生きてゆくことのできない状況に出会ったとき、その解決のために変わるべきなのは、必ずしも欠陥やハンディをかかえた本人ではないということです。だということは、リカバリーにおいてはご本人の変化や成長はその前提ではなく、それぞれの人が生きやすいように社会が変化すれば、本人の状態がまったく変わらなくともリカバリーはおきうるということです。そして、個人が変わること/環境が変わること、の2つははっきりと分けられるものではなく、その順序も、まず個人に変化を求めて、それがうまくいかない場合には環境を個人に適応させる(「障害者」に対する合理的配慮の要求のようなもの)という順にいつもなるべきだとはいえないと思います。

「サポートハウスとびら」の理念では「共に生きること」が大切なこととして語られてます。ここで思い描かれているリカバリーとは、ニュージーランドのBlueprintに書いてあるリカバリーの定義、「人々が完全な健康に戻ることや失ったものをすべてとり戻すことを意味するのでは必ずしもなく、人々がそれらの存在にもかかわらずよく生きてゆけること(can live well)」に沿うもののように思われます。リカバリーの意味するものは一人ひとりにとって異なるものなのですから、精神的な症状のあるなしによって区切られる必要がありません。「当事者」とか「専門職」「家族」「地域の人」などによって分断されてしまうことも必要がなくなるのです。「よく生きてゆけること」はすべての人にとってあてはまることであり、そしてそのこと何を示すのかも本人によってしか定義できないことだと思います。

サポートハウスとびらは、法人にとってリカバリーの新たな進展を具現化してくれるのではないか、と期待しています。


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