5年

 熊本県・大分県を中心とした大震災から5年の月日が流れました。あの時、私は弊法人からの派遣で精神科救援活動DPAT(Disaster Psychiatric Assistant Team)の山梨県班第3班として同僚とともに被災地で活動のお手伝いをさせていただきました。今春、多くの方々のご尽力で、名城熊本城は復興がなったとのこと、本当におめでとうございます。

 宇土市では医師会のドクターたちが毎朝早くの診療開始前の時間にミーティングを開いておられ、私たちも参加させていただきました。医師会の皆さまは自らも被災されておられるにもかかわらず、ご自身の周りの住民の方々の健康を第一に気にかけられ、巡回班が引き上げる一方で、避難所に住民の人々が戻る夜間に健康巡回ボランティアを始めようとしておられました。私費を投じて炊き出しをされている医療機関もあると聞きました。保健や福祉を担う行政の方々も被災され疲れていることを思っての活動とうかがいました。お話しの中では「自分たちでできることをしています」との言葉をうかがいました。私たちDPATは、本来は現地の方々のがんばり過ぎや「燃え尽き」を気にかける立場なのですが、同じ職種にある一人として、先輩方の姿に感銘を受けました。かつて、阪神・淡路大震災のときにご縁をいただいた、神戸大学の故・安克昌先生の師である中井久夫先生の有名なご著書の一節を思いました。

”昔は、医学、医療は医師の一身に具現しているようなものであった。その代り、肺炎患者一人を治したら一人前の医師とみられたものである。むろん、抗生物質以前の時代の肺炎治療のためには、医師は患者の家で徹夜する覚悟が必要だった。「冷やせ、あたためよ、辛子泥(からしでい)を塗れ、・・・・」その有効性はともかく、そういう医師の姿は、荒天を行く帆船の船長のように畏敬の念でみられたものであった。”(中井久夫「治療の覚書」日本評論社、1982)

 私たちは災害の支援から多くのことを学ばせていただきました。医療者としての自らの原点はなにか、人として生きるということはどういうことなのか。そして今日の新型コロナウィルス感染症禍中において、これまで経験からの学びから自らのできることを行うには、志を同じくする人とつながるには、まだ出会っていない誰かの心の平安に貢献するにはどうしたらよいのか・・・。考えています。

 今なお、さまざまな場所で不本意な環境の中に身を置かざるを得ない状況において苦しみながら懸命に生きておられる方々に少しでも役立つ人でありたい、そして、私より先にこの世を去ってしまった素晴らしい方々に報いていきたいと、この日に当たりあらためて強く思いました。

熊本城と桜・2015年

 
最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。