ここは今から倫理です(2)キルケゴール

 毎週土曜の夜のNHKドラマ「ここは今から倫理です」を視聴しています。NHKの公式サイトはこちらです。
 https://www.nhk.jp/p/rinri/ts/WKL8N2Z561/

 1月23日の第2回目は、学校で寝てばかりいる男子生徒について、高柳が自由であることについて考えることを伝える内容でした。その生徒の母親はシングルマザーで仕事からの帰宅が夜遅く、家に一人でいる時間を自由に使い、仲間たちと夜中まで遊び歩く日々を送っていた。高柳は授業で寝てしまう男子生徒に、夜に電話を下さいと自分の携帯番号を記したメモを渡し、電話をかけてきた生徒に、「あなたは不安なのではないですか」と問いかけました。

高柳は、キルケゴールの言葉を紹介しました。

キルケゴール「不安は自由のめまいである」

出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
キルケゴール像

 wikipediaによれば、日本語で自由と表現される英語には「Freedom フリーダム」と「Liberty リバティ」があり、ほぼ同じ意味で用いられるが、その意味合いはいくらか異なっているとされます。
 「freedom」は気ままさや束縛されるものがない、人が本来的に持っているものであるとされ、一方で「liberty」は自由主義の「liberalism」にあるように、自らが取りに行くという意味合いと行動の自由・権利・何かを行うための解放という能動的な意味合いがあるとされます。
 自由に人はあこがれますが、自分をそこに引き留めるものがなく、どこまでも高く飛べる自由さに身を置いたとき、それはひとを不安にさせるのではないでしょうか。

 ドラマの中で、倫理の授業として「自由」について輪になって対話しようとしたシーンがありました。高柳は司会を置かず、生徒は輪になって座りそれぞれの立場のちがいも話し合い方も決めず、制約のない自由な対話の場を作りました。しかし、あらかじめ予想された正解がみつからない、すべてを自分が決めるという状況のときに、参加者同士には自由な対話はおこらず沈黙がおこったのです。

 沈黙の時間では他者との対話が行われませんが、自分の中との対話が起こるとされています(私にはそう体験されます)。自分の内面にある過去にまいた「不安のもとになるような」後悔と呼ばれる基盤の上に立つ自分に気づいたとき、可能性しかないはずの未来に向いた公開の種は不安に育つような気がします。そのことをキルケゴールは「不安は自由のめまいである」と看過しました。自由が自己自身の可能性の底をのぞきこみながら、同時におのが支えを求めて有限性へと手を差し伸べる時に不安が発生するのである、と。ひとが安心するためには、何らかの支えや揺らがない根拠、ハッキリとした支えの上に立っていることが不可欠だと思います。

 言い換えると、未来は「無限の可能性」とか「あらゆる希望に満ちている」、といえれば聞こえはいいかもしれませんが、「一寸先は闇」と感じるかもしれず、どことも支えのない自身を見つめた今の自分にとって、未来をよいものと感じられるか、不安と感じるかは、他ならぬ「自分」を信じられるかどうかに「由る」ということでしょう。自分の中に、確固たる信念、土台となる人生観があるかどうかを省みたとき、寄る辺のなさが不安を生じるのです。

 「自由」であるがゆえに、何をすべきなのか、の正解が分からないと、居心地が悪くなり、ひょっとすると誰かに決めてもらいたくなるほど、自由から逃げたくなるかもしれません。かつてエーリヒ・フロムは、孤独と無力感にさいなまれた大衆が、他者との関係、指導者との関係を求めて全体主義を信奉することになることを「自由からの逃走」で記したのでした。

 高柳は学生に言いました。「映画にしばられる時間は、自由はないが不安はない、それは単に楽しい時間」。私はアディクトの行動を持つ人たちのことが頭をよぎりました。

今週の問いかけ「「ヒマ」と「多忙」どっちが幸せですか?」

 
 
 
最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。