ここは今から倫理です(1)老子

 毎週土曜の夜のNHKドラマを見ています。昨年は、阪神淡路大震災以後の心のケアの第一人者(この言い方は嫌だったようです)であった故・安克昌氏の著作を題材にした「心の傷を癒すということ」を見ました。上質のドラマでした。

 そして今年、同じ枠で「ここは今から倫理です」を視聴しています。原作は雨瀬シオリ氏がヤングジャンプ誌にかいている同名の漫画です。NHKの公式サイトはこちらです。
ここは今から倫理です。 – NHK

 ジャンルとしては一応学園モノということになりますが、高校で倫理を教えている教師(高柳)が、学生たちの心の葛藤に、先人哲学の名言を織り交ぜながらともに考える指針を見つけて行こうとする内容です。

 1月16日の第一話は、愛に飢えている女子高校生が、好きでもない子と教室で性交渉をしてしまったり、流された学校生活の中にあるなか「ジェンダーとは」「幸せとは」そんなことを言う不可解な倫理の授業を行う教師に惹かれえて勉強を始めたり、いじめられの経験を持つ男子高校生がいじめられた子を助けられるような教師になりたいと思いながら出会った高柳に、「こんな先生になりたい」とあこがれるというストーリー展開でした。

 高柳は女生徒に教養を身に着ける努力の重要性を伝え、いじめ体験者の男子生徒には名言を伝えました。

第1回での明言は「老子」の一節でした。

老子「徳経」任德第四十九から:
善者吾善之  不善者吾亦善之

善なる者は吾れこれを善しとし、不善なる者も吾れまたこれを善とす。

これは”人々の「善」はその本性(善)として受けとめ、「不善」も人々の現実の本性(善)として受けとめる。”ということです。

実はこの一節には次の二語があります。
徳善 

徳は善なり。

”それぞれの本性は善だからである”

 老子による「善」とは一つの社会的な判断としての「良い」とは同じではありません。何が本当に「よい」のかを考えてみれば、これは時と所により、時代や民族により大きく異なっていますし、「良い」は「悪い」がないと成立しないものでもあります。自分にとっての正しいことが他人にとっても正しいこととは限りません。「善」からそういう倫理規範の意味をそぎ落としていくと、最後には、それは物や人の本性(もちまえ)の自由なはたらきという意味になっていくと老子は説いているそうです。このドラマにおいては、ひとの行いを自分基準の「善悪」で判断して、善人だけを救おうという、教師になりたいかつてのいじめられっ子の考えは、どこかで自分が悪人を救わない側に立ってしまう、と高柳は指摘したのでした。物事の本質が見えてくるならば、極端な価値観や「常識」にとらわれることを疑えるようになるというのです。
 

老子像:wikipediaより

 新型コロナ感染症に社会全体で不安を感じ取っている今、みんなで「正しさ」を求め、そうでない言動を攻撃することが増えている気がします。「@@警察」と称される、正義感に沿った過激な言動をする人も見かけるようになりました。「正しさ」には人それぞれの基準があるのに、意に沿わない人を排除するような世間の目について、ある時その目が自分に向けられる可能性におびえて、誰かにはっきり促されたわけでもないのに「世間的にそういう流れだから」「なんとなくみんなもそういってるし」のように自分の思う「正しさ」をないがしろにして「同調圧力に流される」ことに心を痛めることがあります。狭い常識は「ある・なし」「よし・あし」のような二項対立の中から生じて、新しいものを創造することはありません。老子の考えは、そういったくびきから自分を解放する必要を説いているようです。

 ドラマの中の男子生徒に身体を求められて断れなかった女子生徒が場面があります。相手に嫌われたくない、という感情=排除の恐怖と自身の「正しさ」との葛藤を高柳は声にすることを求めました。

「合意の上でですか?」と。

 彼女は解放されました。

このドラマでは、最後に毎週視聴者に問いかけがなされます。

今週の問いかけは「嫌われたくなくて断れなかったことはありますか?」でした。皆さまもよければ自分に問いかけ、自分自身との対話をおこしてみてください。

原作はこちらをご参照ください。
http://grandjump.shueisha.co.jp/manga/rinri.html
漫画の画風が苦手の方向けには、小説版もあります。
https://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?isbn=978-4-08-744197-0

 
 
最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。