藤武神社
- 2021.01.21
- 日記
韮崎市の藤武神社は、かつて武田勝頼公がひと時居城とされていた新府城の址にあります。昨年の秋に運動がてら一人で訪れてみました。
武田勝頼公は信濃国諏訪領主・諏訪頼重の娘・諏訪御料人と信玄公の間に生まれて当初は諏訪氏を継いで高遠城主になりました。しかしその後、武田家正嫡である武田義信公が廃嫡されると継嗣となり、1573年信玄公の死により甲斐武田家第20代当主として家督を相続されました。
信玄公の死後、窮地を脱した織田信長・徳川家康らでしたが勝頼公は、勢力拡大を目指して外征を実施し、1574年の高天神城の戦いでは、信玄公のおとせなかった遠江国の高天神城を陥落させて東遠江をほぼ平定しました。しかしながら、その1年後の長篠の戦いでは重臣たちの決戦回避を聞き入れずに戦端を開き、あまたの重臣が命を落とすという大敗北を喫してしまいました。翌1580年には高天神城が攻撃されましたが、この時に勝頼公は後詰を派遣せず「見殺し」にしたと受け取られたことは武田家の威信を大きく失墜させ、国人衆は大きく動揺し、日頃から不仲な一門衆や不義の国人の造反が始まるきっかけとなりました。その後勝頼公は攻勢を強める織田方への備えとして、1581年正月から現在の韮崎市に新たに新府城を築城し、その年の暮れには躑躅ヶ崎館・要害山城の所在する甲府から本拠を移転されました。
しかし翌1582年に信長は甲州征伐を開始しました。2月には信玄公の娘婿の木曾義昌が寝がえり、駿豆国境では曽禰河内守と穴山梅雪が敵軍に内応を約束しています。そして武田領は織田信忠が伊那方面から、金森長近が飛騨国から、徳川家康が駿河国から、北条氏直が関東及び伊豆国から侵攻され始めました。
これらの侵攻に対して武田軍では既に組織的な抵抗ができない状態でした。前述のごとく信玄公恩顧の諸将は次々と寝返り、残された武田軍の将兵も人間不信を起こし、勝頼公を見捨て、隙を見ては逃げ出しました。唯一、抵抗を見せたのは勝頼公の弟である仁科盛信公の高遠城だけだったといいます。しかし1582年3月、高遠城が落ちると、勝頼公は未完成の新府城に火を放ち小山田信茂の居城である岩殿城に落ち延びようとされました。しかし、ここで信茂は織田方に寝がえり、進路をふさがれた勝頼公一行は武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指しましたが、その途上の田野で追手に捕捉され、嫡男の信勝公や正室の北条夫人とともに自害して果てました。勝頼公享年37。甲斐武田氏は滅亡したのです。
新府城は未完成でしたが、近年発掘作業や間伐など整備がなされ、甲州流築城術の特徴として、台地の突端部(添付側面・背後は断崖や川)を利用し戦闘正面を限定させ、なおかつ正面からの敵の圧力を側方に流すような構造と隊列を伸ばされた敵の側面から矢を掛けて攻撃し、堀は敵を断崖・川へ追い落とすような構造となっています。見事な備えのこの城は一説によると武田家臣の真田昌幸が配下の国衆に人足動員を命じたものとされています。
藤武神社は新府城の本丸跡にあり、そこには勝頼公を弔う石碑や、長篠の戦いで討死にした、五味高重、小山田昌輝、真田昌輝、真田信綱、高坂昌澄、山県昌景、馬場信春、武田信実、原昌胤、内藤昌秀、香坂助宣、土屋昌続、甘利信康、横田康景諸将の墓碑があります。
勝頼公ご辞世「おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは 」
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