プシコ ナウティカ<第7章>
- 2016.05.04
- 日記
今回はプシコ ナウティカ第7章を読み終えて、忘備録的に感想を残すことにします。詳しい内容はぜひ本をお買いいただいてお読みいただきますようにお願いいたします。
松嶋健「プシコ ナウティカ」世界思想社
第2部 イタリア精神保健のフィールド
第7章 歓待のとしての「わたし」と「地域」
イタリアでも地域精神医療のスタッフ間のジェネレーションギャップとでもいうべきものがあるようです。初期の頃のオスペラトーレ(地域精神医療スタッフ)は何でも屋だったのに対して、その後の専門教育をより長く受けた世代の看護師は、自らの任務や役割の外に関与したり責任を取ろうとすることがなくなっているといいます。文中に登場するエドワルドの言葉を借りれば「専門化」とは自分の職種・専門・役割に閉じこもることだということです。私たちの経験でもチームアプローチにおいて、それぞれの専門性を足し算して作る「多職種チーム」と、それぞれの専門性はあっても、それを超えた役割をとろうとする人々による「超職種チーム」の違いのように思いました。アウレリアは「精神保健の分野で働く看護師やオペラトーレの専門性」について、様々な病者について知り、すでに学んだやり方を個々の状況に応じて適用できること、それは経験を身体化していくことで、足し算ではなく年月の中で無用なものを取り除いていくことによって、その時々に応じて自ずと行動できるようになることだと言いました。
そういった精神保健の現場の実践知について、この本では実際のカーサファミリアのオスピテであるぺルタと、オペラトーレの関係性が示されています。オペラトーレはオスピテの要望を何でも聞くのではなく、「側面につく」つまり、正面から向かい合うのではなくオスピテが欲望や意思を持ったリアルな一人の他者に出会うことを提供するために一人の人間としてかかわります。仕事だから言う事を聞くのではなく、自分自身の状況を把握して自分のことを自分で決めていくことが支援の立場の人にも求められるのだと感じました。
そして全能妄想が紹介されます。サヴェリオ医師は統合失調症の妄想を他人とのインタラクションの観点からとらえていました。統合失調症者とは、根本的に全能感か協働かという関係性のゲームなのだ、と。そのような全能妄想を持っている統合失調症者の側面につく必要があるとき、リウニオーネ(ミーティングに入ってきて発言する=リウニオーネ自体は本人が参加してもしなくてもよい)妄想の真偽には立ち入らず、他の人々が共に生きている次元とは別の次元であるということをサヴェリオ医師は実にそっけなく示すだけです。嘘か誠かの価値判断で人を裁くよりも、その人についての不安を解消するような提案をするのです。
リウニオーネには、2つの意味があり、1つは選択肢の提案であり、もう一つは比較対照し、相互的にヴェリフィカ(評価)する場を創出するということだとされます。人は人との間ではじめて欲望を表すことができますが、それは同時に他者からの評価を得ることでもあり(それは正義と悪という裁きとは別です)、その中で人は何をするかとともに何をしないかを学んでいくということになります。このように、結局はたがいに融合しあえないものとしての他者との出会いは利用者にもスタッフにも同様に必要なことだと筆者は記しています。
支援者が常に「いい人」であろうとする義務からくる「共感」や「傾聴」は大切ではあるが、そこに潜在している、自分の体験に置き換えることによって他者と同じ考えや気持ちになれるという「同化」の思想に基づく「他者理解」ではなく、は決して同化されえない他者と出会うことで「わたし」の存在が可能になることを経験する必要性を筆者は述べています。そして、自分が特別な存在であることは他者と出会うからこそ知ることができ、その出会いの場の一つが「地域」と呼ばれるものであると考えられます。
そして現在イタリアの精神保健サービスは困難な状況にあることが紹介されています。一人暮らしの方が亡くなっているのを発見されたときのリウニオーネでのやり取りです。バザーリア法ができた直後から、「出来事」があると「そらみたことか」の論調があるようですが、マウリツィオ医師はそれは自由のはく奪か、自殺かという単純な二者択一の話ではないのだと言います。スタッフの仕事は自殺しそうかどうかの瞬間ではなく、そうなる前にどうするかという仕事であると。しかし、そのために必要な人員が削られてしまって、24時間スタッフが誰かのそばにつききりになることができなくなったり、精神保健センターも24時間あけることができなくなってきたということです。
財政削減によりスタッフの柔軟性が低下するということの原因としては、おしゃべりをしたり、一緒にでかけたりするなかで培われる関係性に基づいて行われる地域精神保健の仕事が、まるで何もせず遊んでいるかのような扱いを受けることになっているそうです。わが国のアウトリーチ推進事業でのやりとり=すばやく医療につなぐことがアウトリーチの目的であることは妥当なのか、を思いだしました。そして少ないスタッフで地域システムをまわすことになると入院させざるを得なくなるケースが出てくるのです。そのような事態に抗うために現場はスタッフ確保のために行政との交渉も必要になってきているようです。結果として強制入院させなくてはならないこともでてきていますが、それはあくまでそれぞれの利用者と治療者が個別に直接的な関係性を築いたうえでのことなのであって、とりあえず入院させたりとりあえず拘束したりということと混同してはならないとサヴェリオ医師は話しています。
現状の中で、オペラトーレもまた「自分たちは他人を治したり救ったりできる」という全能妄想を持ち続けるのではなく「どれだけ全力をつくしても、命を絶ってしまう人がいるというのも他者の現実」であることを受け入れられなければならないでしょう。
最後に、歓待についての項では、精神保健センターの最初の受け入れだけが歓待なのではなく、地域全体が歓待の場になっているケースが描写されていました。そこには地域の人々から「気の毒な人」ではなく、自らの家族のように接されているベルナルドのことが示され、街の風景の一部となった同志ゼーノのことが描かれています。
”私たちは今あらためて、生まれて、病んで、老いて、死んでゆく場としての「地域」の意味について考えなければならない。”で、この章は結ばれています。
最後までお読みいただいた方、どうもありがとうございました。
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