プシコ ナウティカ<第5章>

今回はプシコ ナウティカ第5章を読み終えて、忘備録的に感想を残すことにしました。詳しい内容はぜひ本をお買いいただいてお読みいただきますようにお願いいたします。


松嶋健「プシコ ナウティカ」世界思想社

第2部 イタリア精神保健のフィールド
第5章 一人で一緒に生きる

「一人」で「一緒」に生きていくことの実践として、イタリアの地域保健の実践では「住まう」ことと並んで「働くこと」が重要視されています。働くことは権利のアクセスへのカギであり、主体性を具体的に行使するための大きな足がかりとなるからです。そしてイタリア共和国憲法の第一条第一文は「イタリアは労働に基礎をおく民主的な共和国である」で、「主権は人民に属する」より前にきています。そして様々な困難を持つ人々も「障害者」として社会的な援助を期待するよりも、社会協同組合のようなところで「労働者」として仕事をしつつ最低賃金法で守られながら、社会保険制度(年金、労災保険、失業手当、家族給付など)によっても保障されるされるほうが現実的であると考えられます。
イタリアではながく非典型的(非正規)労働者が優遇されてきましたが、1970~1980年代の経済危機以降、徐々に労働者とその家族を柱とする社会保障政策は見直しを余儀なくされていきました。1992年の「障碍者の援助・社会的統合・諸権利のための枠組み法」と2000年に入り「社会的措置・サービスの統合システムの実現のための枠組み法」で第3セクターの社会福祉サービス運営と政策形成の場への参与を認め、個人、家族、自助組織の活動支援が打ち出されました。それは個別への直接的公的現物・現金給付施策ではなく、多様なアクターが関与して自助あるいは相互援助を通じて展開される、間接的かつ自発的な釈迦援助システムの駆逐を目指すものでした。これは障がい者などの社会的脆弱者の排除をやめ、ソーシャルインクルージョン推進の方向性がイタリアにおいては「労働」を通して展開されていったということになるでしょう。
私はIPS援助付き雇用モデルに基づく就労支援を長らく目指していますが、リカバリーとソーシャルインクルージョンの観点からは、「competitive employment 一般雇用」をリカバリー志向における働く目標とすることには異論はないものの、よりソーシャルインクルージョンを意識したときに、社会的企業や「customized employmentカスタマイズ就労」にも目を向けるべきだと感じています。「カスタマイズ就業とは、障がいを持つ人の強み、ニーズおよび関心についての個別の決定に基づき、雇用主の特定のニーズにも応えられるように組み立てられるものでジョブカービング、自営、起業家的取り組みにより創出される雇用、または、障害者のニーズに適合させるために職務を個々人別にカスタマイズすることや、個別に交渉するというような、その他の就職支援や職務再構築の戦略も含まれる。」とアメリカでは考えられていますが、イタリアの実践にもそのような考えが取り入れられているように感じました。ちなみにイタリアでもいわゆる「障害者枠」があり、50人以上の従業員を持つ事業体では7%以上の「障害者」を雇用することが法で定められています。精神保健サービスの利用者が利用することが最も多いのは社会協同組合B型と労働奨励金の制度ですが、重要なのは、わが国のB型就労継続事業所に多い単純作業をするのではなく、働くことに喜びを見いだせるような(この本の例ではブドウの収穫)ものであることだとしています。働くことに喜びをみいだすためには決められたことを歯車のようにこなすのではなく、仕事に「工夫」の余地があり、自分で試行錯誤をして可能性を押し広げていくことが重要と考えられています。弊法人の「障がい枠」でも、仕事の工夫に関してジョブコーチと働く本人とでマニュアルを一緒に作り、ご本人の工夫を取り入れていた経験も重ね合わせて読みました。
仕事においては「自己効力感=自分が誰かの役に立っているという実感」が重要で、単に仕事をするだけではなく「誰かと集合的に仕事をする」ことがその感覚を得るためにより効果的であるとも書かれています。そしてその中で「多様性」と「補完性」つまり、チームで動くためにそれぞれの役割を果たしてことにあたるものとして有機農業の有用性が熱く語られています。働くことについてのこのくだりはびっくりするくらい、私の考え方のまっすぐ先を示してくれるものでした。

続いてある男性の物語が書かれています。アルゼンチンのイタリア系移民の子孫だった彼がさまざまな困難の経験のはてに精神保健センターを訪れ、そしてカーサファミリアで暮らし、そしてそこを出て妻をアルゼンチンから呼び寄せて民宿を立ち上げました。イタリアの精神保健サービスは精神疾患に限定された医療的サポートだけではなく人の困難や危機に寄り添うものであればこそ、とこの本では書かれています。そして彼の民宿も、その後彼が始めたイタリアに住んでいる移民向けのスペイン語のラジオのプログラムも、どちらも単なる仕事ではなく、彼自身の生き方の変革であるのだと語られています。そして「人間同士の交わりこそがすべての基本となるような世界」に必要なものは日常的な喜びとインスピレーションだと記されています。
人間が人間を人間として扱うことの根本には、その人と生きた関係に入るということがあるのではないか、と筆者は書いています。近代の精神医学や精神病院というシステムは人をモノ化してと人を分断し、権力を持つ者がそうでない者と生きた関係を持つことをしてこなかったのです。この章では医師が引きこもっている人への働きかけとして、文字通り身体の一部を触れることによる相互的な触発の経験が人間同士の関わりの始まりになるのだという例を挙げています。触れることは肉体的ではなくとも言葉でも行いうるものであるとも示されています。重要なのは、どのように相手に触れるかということは身体的であれ言葉であれ、医療としての手間をかけないですませるためのテクニックではなく、相手の人へ全体性の中で行われることで、筆者はこれを「グルーミング(毛づくろいをする交流の仕方)」と表現しています。そして本の事例では支援者は自己と他者の境界線がなくなっているような構えを持っています。境界線(バウンダリー)を設定したり意図をもって境界線を乗り越えるのではなく、気がついたらすでにまたぎこしてしまっているような境界線だとされています。事例では触れるという行為はどちらが起点であるかは決められない、訪問した医師はもはや医師と患者の関係ではなく、あたかも母親と子供のような関係になっている記されています。私ははこの関係性とはピアサポートであり、本に記されているとおり、それは本来意図的なものではないということも強調されるべきだと思いました。
この章の締めくくりには人間的な主体が立ち上がるためには、触発を生み出すような出会いが必要であり、出会いと相互的な触発があると生きた関係が立ち上がるだろうと書かれており、イタリアの地域精神保健活動の興味深さは現場ではこういった出会いにもとづく関係性がベースにしている点であると筆者は述べています。主体については、先の章でも述べられていましたが、「(強い)主体」というのは、学校や家族や教会などの様々な(国家)イデオオ装置の産物であり、個の「万能感」に依拠している場合が多いと考えられています。それに対して本著では「集合的主体性」として存在する「弱い主体」という考え方が重要となります。関係性によってはじめてあらわれる主体、それは私とあなたではなく、私たち、の存在を意味することのように私には感じられました。

最後までお読みいただいた方、どうもありがとうございました。