Psychoeducationってなんだ?

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今日は、ここでも示されている「教育」についての私見を述べてみます。

教育とは英語の”education”の訳として明治以降使われるようになった単語です。語源としては、”educatio”というラテン語から由来するものとされているそうです。この語は、もともと、動植物の生命を引き出し、それを飼育したり栽培したりするということを意味していたとされ、それが徐々に子どもを養い育てること。つまり、親が子どもの成長が引き出されることを願い、育てることを意味するようになったとされています。この語には、子どもが生れながらもつ諸力を引き出すように、生れついてもつ状態を考慮し、その能力の内部における成長を待ちつつも、同時に、能力が発揮できるように外部から働きかけるという二重の意味があるそうです。

明治のはじめ、”education”の翻訳に関して大久保利通氏と福澤諭吉氏と森有禮氏が論争したといわれています。大久保氏はこの語の訳として「教化」が望ましいと主張し、福澤先生は「発育」が適訳であるといい、森氏はその間をとって「教育」としたそうです。「教育」はそれまでには儒学の影響を大きく受けた言葉で、政治的に上に立つ者が下に立つ者に指示する際に用いられてきた言葉でした。そのために、子どもたちに知恵を授け育てていく仕組みとしての学校について、福澤先生は次のような「文明教育論」を、 1889年8月5日付の「時事新報」社説として発表しました。

「一概に教育とのみにては、その意味はなはだ広くして解し難く、ために大なる誤解を生ずることあり。
その事にあたり物に接して狼狽せず、よく事物の理を究めてこれに処するの能力を発育することは、ずいぶんでき得べきことにて、すなわち学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくそれを発育するための具なり。教育の文字ははなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり。かくの如く学校の本旨はいわゆる教育にあらずして,能力の発育にあり……。我が国教育の仕組はまったくこの旨に違えりといわざるをえず。

つまり、福澤先生は”education”を「教育」とは訳すことは妥当ではなく、「発育」と訳すべき、と考えていたようです。この文脈においては特に国が必要と考えて用意した課題を与え、その課題を解けるようになるかどうかを求めるような過程は”education”ではないとなります。

重要なのは「事にあたり物に接して狼狽せず、よく事物の理を究めてこれに処する能力」つまり、人生上のさまざまな出来事としての応用問題になんとか対処ができるよう能力が身につくように双方的にアプローチすることが”education”なのではないかと個人的には思っています。

山住正己編:福澤諭吉教育論集、岩波文庫、1991

私は日本心理教育・家族教室ネットワーク認定のインストラクターをさせていただいていますが、ご家族との間においてもご本人との間においても「Psychoeducation:心理教育」においてはネットワークの理念にも従い、双方向性=対話を心がけていく所存です。



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