神々が見ている

私の敬愛する組織論の大家、P.F.ドラッカーは若いころ、ギリシャの彫刻家・フェイディアスに関する一冊の本を読みました。その中から彼は以下のことを感じ取りました。

彫刻家フェイディアスは紀元前500年にアテネのパンテオンの庇に立つ彫刻群を完成させたことで知られています。そして彫刻の完成後、フェイディアスの請求書を見たアテネの会計官は、「あんな高い所にあって、正面の一部しか見ることができないのに、あたかも裏も表も全部見えるがごとく計算して、その分まで請求しているが、それは不合理である。誰も、そんな全部のところが見えはしないのだから」と言って、支払いをしぶりました。

しかし、彼の答えはこうでした。

「とんでもない、神様は全部見ているのだ。」

wikipediaより「パルテノン神殿」

この話を読んでドラッカーは「人間として完璧なものは到底つくることはできないが、いつもそれを追い求めるのが務めである」と考えるようになったのです。私にとって、ここでの「神々」とは宗教上の存在というよりも、その人なりに理解した「神」であり永久不滅の「価値観」といえるものではないかと感じました。思えば、わが国でも「おてんとうさまが見ている」という言い回しがあったかと思います。

さまざまな事柄は表に出ていることで外側からの評価を受けるでしょう。しかし、前面が見事に仕上がっているものは、背面の仕事が見事でもあるものなのではないでしょうか。なぜならば、見えないところにあらわされているものに哲学や理念があることが多いからです。人は大きな物事を成し遂げたとき、つまり、成功を得た時に心に誇りを持つものですが、成功の鍵は責任にある、とドラッカーは言っています。よってたつ哲学や理念に対する責任を自らに持たせることが始まりであり、大事なものは地位や肩書きではなく責任だというのです。自らが責任を持つ存在になるということは、仕事に真剣に取り組むということであり、そのために成長する必要性を認識するということであると彼は言っています。

人々にメッセージを伝えるしごと、世の中に影響を与えるような仕事をしている多くの人たち、今一度問いかけてみてはいかがでしょうか。

私は、私が信じる神々に見ていただける日々の仕事をしているだろうか?

私も肝に銘じていたいと思います。

最後までお読みいただいた方、どうもありがとうございました。