心頭滅却

  

甲斐の国(現在の山梨県)の鎌倉期に夢窓国師を招いて開基した 甲州随一の名刹(武田信玄公の菩提寺として有名)として名高い恵林寺の門には有名な「心頭滅却すれば火もまた涼し」のもとになった文が掲げられています。 

この句は快川紹喜禅師が亡くなる直前の心境を表したものとされています。快川禅師は信玄公に招かれて恵林寺に入寺し、熱く信頼を得たお坊様ですが、信玄公の死後武田氏が織田信長・徳川家康連合軍によって滅亡した後に、礼を厚くして自分を招いた信長の申し入れを辞退しました。その後、快川禅師が武田家の一味に好意を寄せているとの報を聞いて怒った信長は、禅師がおられる恵林寺に焼き討ちをかけました。信長は快川禅師以下一山の僧百余人を山門楼上に追いこめ、周囲にたきぎを積み重ねて四方から火を放ったそうです。そしていよいよ火が周りを包んだとき、快川禅師は心境を次のように示しました。

 安禅は必ずしも山水を須いず (安禅不必須山水)
 心頭滅却すれは火も自ら涼し (滅却心頭火自涼)

涼しい火などあるわけがない。「滅却心頭火自涼」とはどのような据わりどころなのでしょうか。無念無想の境地に至れば、火も熱くは感じなくなる。どんな苦難にあっても、それを超越した境地に至れば、苦しいとは感じなくなるものである、ということなのでしょうか。
実は、快川禅師が最後に唱えたこの一節は、禅書として有名な「碧巌録」の「洞山無寒暑」に出てくるのだそうです。

とある修行僧が、洞山良价禅師(869年没・曹洞宗の宗祖ともいうべき方)に問いかけたのだそうです。「気候に寒い暑いがあるように、自らの外側から来る苦悩があるとき、どうしたらその苦悩を避けて修行ができるのでしょうか」

洞山禅師の答えは「寒さも暑さもないところへ行けばいいではないか」でしたが、修行僧は「寒さも暑さもないところとはどこにあるのですか?」とさらに問いました。
そのときの洞山禅師の答えは「それは別に変わったところのことではない。寒いときは汝が寒さになりきり、寒さに同化すればいい。」つまり寒暑から逃避せずに、まともにぶつかって寒暑に溶けこむのが修行のありかたであると言われました。寒暑を苦楽のいずれかに決定づけるのは、修行している人の心のありようによっているというのです。温度計は気温の高低をはかりますが、寒い/暖かいを感じるのはあくまでも個人的な感覚だということなのです。困難を学びととらえる、という考え方にも近いものかと私は感じました。

よく、「心頭滅却すれば火も亦涼し」といわれますが、門には「火亦涼」ではなく「火自涼」と書いてあります。修行によって火を涼しいものと感じよ、とか、熱くとも涼しいと思え、というのではなく火の熱さを「自ら=そのままに」熱いと受けとって、しかし火にも熱さにもふりまわされないという、己と環境との関係を把握した、静かに澄みきった境地が「涼し」なのではないか、と思います。

最後までお読みいただいた方、どうもありがとうございました。