酒田の本間家と公益事業

先日、所用で山形県にある酒田という所に行ってきました。この街は江戸時代から庄内米の産地として栄えていたそうですが、そこには本間家という、農地解放による解体まで日本最大の地主であり、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」という歌も詠まれるほどの栄華を誇った一族がいたそうです。

  

庄内米のブランド化に貢献した山居倉庫

本間家は、江戸時代初期、米相場の投機でまたたく間に巨万の富を得た大地主で、他に北前船交易の盛隆もあり三井家・住友家に劣らぬ大商家であったそうです。財力を基盤として金融業として「大名貸し」、「商人貸し」、「農民貸し」を行いましたが、それぞれの返済にあたっては温情措置をとるなどして、貧困の民を救いました。 同時に庄内藩へは多額の献金を行って、砂防林の植林、新田開発、寺社の寄進、貧民救済事業など、町の発展のためには惜しみなく私財を投じたといいます。今でいうインフラへの投資ということになるでしょうか。しかし明治維新後は、引き続き日本最大級の大地主ではあったものの、起業・興業にはあまり熱心ではなく三井家・住友家のように財閥化せず、一地方企業家にとどまって、町のインフラ整備に大いに尽力し、代が替われども巨額の献金は続けられ、戦前までのあらゆる寄付金は本間家が引き受けたほか、なんと酒田市の税金の半分を負担していたそうです。ステークホルダーとして殿様や庄内藩の家老、本間家一族、取引先、などよりもより広い地域社会の人々、公益への資金提供を積極的に行ってきたといえるでしょう。

一方でその豪商ぶりとは裏腹に、商人としての分をわきまえ、生活は意外に質素だったとも言われています。本間家が、人々の冬季失業救済事業として建てた別荘はその後本邸として使われましたが、武家造りと商家造りの両方を見ることができる変わった屋敷であるものの、書斎はたった5疊ほどの広さしかありませんでした。
公益を追求するためには、公益事業への補助や助成金を得ることも重要ですが、事業拡大と社会への貢献について、先人の想いを学んだ1日でした。

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