ひきこもりでいいみたい

かつて同僚だった方の著書を読んでみました。
タイトルをみただけでは、ひきこもりを全肯定してるようにも思えますが、そうではありません。筆者がなぜ「いいみたい」と感じられるようになったかは本の中に書いてあります。いつも、問いの中に身を置きながら、悩みとともにあること、予測のできないことをそのままに感じ続けることの大切さが伝わります。
日常生活は常に流動的で、その場その場の正解は実はなかったりするのではないでしょうか。引きこもりに関しては「親と子」という関係性の中に困りごとがあって、必ずしも本人だけが困っているわけではなかったりします。

文中にも
1.困っているのは誰なのか
2.ご本人が困っていることは何なのか
3.周りと折り合えることは何なのかを考えていくことが大切
とあります。そして

1.⇒ご本人のひきこもりに困っているのは母親(ご本人は困ってはいない)
2,⇒ご本人が困っていることは、困ってないのに自分の状況を母親が第三者(著者)に相談したことではないか
3.⇒困っている母親と困っていない本人が折り合いをつけることを本人との話題にしてみようとする
と書かれています。

言葉に表しにくい、相手の方との関係性について、わかったふりをしないでまずは感じるところから。そこが重要なのだと思います。関係性の立場からすれば、それはご本人にも、いわゆる支援者も同じような気がします。今、私がご家族の方たちと一緒に学んでいる「LEAPアプローチ」でも、信頼関係を築くことがなにより優先されるべきとの教えがあり、そのことと似ているのかもしれません。

みんな知りたいのは、今後についての予想や、原因の究明ではなくて「リアルな情報」なんだと思います。リカバリーにおいて希望はとても重要な要素ですが、最初から「希望」が見えていることはそんなに多くはなく、そもそも希望は感覚的なものだと思ったりしています。実際に、ご本人の方に希望を訪ねても「よくわかりません」ということが多いです。そこで話を終えてしまうのではなく、されたくないことを尋ねるというやり方があると本書には書いてあります。自分の経験でもされたくないことはたくさんあったりします。そしてそれを取っ掛かりの一つとして関係を深めていくことは可能です。そのうえで、支援の立場の人がほっとするために欲しい「希望」よりも前に、ご本にの主体性による「~したい」という欲望が作り(思い)出せるようなアプローチが重要視されているのも当然のことのように思います。

実際に歩いてみることと向き合うことから歩んでいく道が見えてきたり、迷ってから、実は近道があることに気がついたりするんだよなぁ、と思ったりします。そして、失敗も成功もそれから学ぶものがたくさんある。その旅路のようなことを或時は励まし、ある時は一緒に疲れながら、一緒にどうしようかと考えることが支援と呼ばれるものの中で大事な場合があるのだと思います。「正しい」変化が起こることを求めない、それを意図的ゴールにしない。もっと言えば、親子の関係の中に自分も混ざることで変化は常に起きていくものだという自覚があることでしょうか。文中でご本人とご家族と一緒に味噌を作るところなどからその姿勢を強く感じました。

そのために必要なのは繋がっている感覚、勝手に互いを善悪で裁くようなことのない関係性で、その関係性は切れやすく、でもまたつながることもできるような繰り返しから創造されていくのではないでしょうか。

文中、何人かのひきこもりのご本人と筆者のの関わりの事例があります。人を人として丁寧な関わることに敬意を表します。なによりも、「外に出て人と接する」とか「就職すること」のように、ある人の人生のゴールを勝手に決めず、それよりなにより「今、ここ」を大事にしているのが伝わってきます。アプローチの仕方も従来の支援の枠組みにはこだわらずに、ご本人のし好に合わせていろんな引き出しを開け閉めしているようです。私は就労支援にたずさわってIPS援助付き雇用の「競争的雇用で働くことがゴール」というプリンシパルを大事に扱っていますが、それは支援が目指しているだけで、ある方の人生のゴールが単に就職することでないことは当然だとも感じています・

本書は「思います」の文体で書かれており、これは結論を出すのではなく、目の前で見聞きしたことについて自分の内側にわいていることを伝えること(リフレクティング)をしていこうとするダイアローグの姿勢の表れのように思いました。

対人支援を生業にする人にとり学びの多い本になるのではないかと私には感じられました。

 
 
最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。