生きる価値のない人などいない
- 2018.07.28
- 日記
2016年7月26日、「津久井やまゆり園」で入所者19人が惨殺されるといういたましい事件がありました。亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、いまだ惨禍の中にある125人の入所者の方々とご家族・関係者の方々の回復を願っています。
どうして、元はこの施設の職員であった犯人はこのような事件を起こしたのか。事件の動機が精神的な疾患によるものなのかどうかはまだ確定していませんが、この事件への社会の反応の一部には「生産性のない人間には人権はない」と考えるようなものもあり、考えさせられるものがあります。
いわゆる「優生思想」とは、ダーヴィニズム「進化論」の「強者生存」を人間にもあてはめようとする優生学がナチス時代のドイツでさまざまな社会的問題の原因を特定し「解決」する手段として利用されたことに発端があるような気がします。あのユダヤ人大虐殺「ホロコースト」より前、第二次大戦開戦後すぐににナチス政権は「治癒できない患者を安楽死させる権限」を主治医に与え、これは「T4作戦」と呼ばれて、医師らに「生きる価値がない」とされた障がいを持つ人々などがガス室や薬物投与などさまざまな方法で殺されました。この中には身体障がいを持つ人に加えて精神疾患や・知的障がいを持つ人も含まれ、約7万人が命を奪われたのです。
この「T4作戦」を行いえた土壌として、そもそも人間を「従順に働いて生産性があり、社会に役立つ者」と「劣っていて生産性がなく、社会に役立たない者」に二分する考えが社会にあったことが、障がいを持つ人やユダヤ人の大量虐殺のつながったという考え方があります。社会の中にはさまざまな事柄があり、その中には疾病も障がいも異なった文化も一致しない意見も、苦悩や死も存在することを受け入れようとしない社会は息苦しく不寛容で、誰かがスケープゴートにされていきます。
どうして私たちは不寛容な社会を創ってしまうのでしょうか。優生思想はヒトラーや一部のファシズムの人々だけではなく私たちにも内在されているのではないでしょうか。「人間を比較して差別する心は誰しも持っている」と、JD(日本障害者協会)の代表である藤井さんは言っておられました。時の為政者の基準による生産性の有無だけではなく「あなたの病気は○○、あなたは○○人、あなたの性は○○、あなたの感覚は○○」と人々を何かの個性で分類することが差別を生み迫害につながるような気がします。そして、自らが差別されることをおそれて同調圧力に屈して反差別の行動を起こせなくなり、同調から疎外されると「自分には価値がない」と思い込んでしまうのではないでしょうか。「私は他者より良くも悪くもなく、私の人生は他にない取り換えのきかないもの」と考えることがあらためて大事だと思います。
それぞれの人の自己決定を尊重すること、その人のいないところでその人のことを決めないこと、自分の正義は他人の正義と一致するとはかぎらないということをきちんと認識しておくこと。私たちは精神的に困難を経験した方々の支援を行う仕事についてますが、もう一度このことを強く思う必要があると思います。なぜならば「その人に能力がない」ことを理由にしてその人の住む場所を決めたりすることやその人の人生を望まないもので埋め尽くしてしまうことは、殺戮のための収容所でないところでも、善意をもとにしてでさえも起こりうることだと思うからです。あの事件から2年が経った7月26日、私は日本精神科病院協会の精神保健指定医の更新のための講演において、この日のためのスライドを作り、自分自身を戒めたのでした。
最後までお読みいただいた方、どうもありがとうございました。
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