22年

今から22年前の1995年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災が発生しました。私は今年もこの日に朝早く目覚め、さまざまな人々の顔を思い出しています。

私は大学の医局を通して精神科救護活動に参加しました。神戸の住吉駅に降りたとき、街は多くの建物が倒壊し、コンクリート造りのビルの途中階がつぶれていました。木造の家屋も崩れて、道筋をふさいでいるところがたくさんありました。戦時中の光景のようだ、と言うお年寄りの方にも多く出会いました。未熟だった精神科医の私にとって東灘保健所での1週間の活動では誰かのお役に立てたという実感はありませんでした。今思えば、微力な自分が誰かを救ったり役立つことができる、というのは傲慢な考えだったのです。

この大震災で多くの人々の命が失われ、多くの人々の人生が変わりました。私の人生も大きく変わりました。社会に貢献するということがまだ自分の心の中に核としては形成されてなかったころ「誰かの役に立ちたい」という思いは大きく私を突き動かしました。そして、精神医学とは実践で役立つものではなければいけない、医師の力だけで人の心を支えていくことはできない、診察室の中にだけいても、精神的困難を持つ人々の人生には届かないのだと知りました。

その後も何回か神戸に行かせていただきました。訪問活動は人と人とのつながりの大切さを私に教えてくださいました。当時は精神科アウトリーチなどの概念がまだわが国にはなかったのですが、訪問には私だけでなく看護師や精神保健福祉士など、職場の他職種の同僚も同行してくれました。はじめてお目にかからせてもらった方々の多くとは本当に一期一会ではありましたが、つながりが続く方にも出会いました。大変な境遇に置かれている人の気持ちを本当に知ることはできなかったのでしょうが、少なからぬ方々からねぎらわれたり、感謝をいただきました。自分は感謝されるに値するようなことはなにひとつしていないと、申し訳ない気持ちになりました。当時、共同作業所であった「御影倶楽部」の人々やその周囲の方々からは生きるということの意味をあらためて教えていただきました。ピアサポートという概念もまだ自身の中にはなかったころ、作業所のメンバーさんたちのつながりや、遠くから仲間のことを思うメンバーさんの活動が心の琴線に触れました。

それから長い年月が過ぎました。中越地震や東日本大震災、他にも数多くの災害がこの国には興りました。昨年、法人では熊本大地震にDPATチーム派遣に参加することになり、私も現地に赴きました。この間、アウトリーチ事業にも参加し、心の傷つきについての臨床も少なからず経験しましたが、現地では相変わらずに十分なことができたとは感じられませんでした。それでも「誰かのもとに行ってただ一緒にいること」そして「人間の回復力を信じること」は私の根本としてまた成長していきました。

同時に、避難所を回るときに人がどこに自分の身を置くかを決めることは基本的な人権であることも痛感しました。また、避難所の運営には精神科病院のノウハウの多くが「役立つ」のであると感じ、心がざわざわとしました。そういった体験を経て、私は、かつて「心的外傷」や「アウトリーチ」や「ピアサポート」などの言葉に出会ったように、「ハウジングファースト」に出会いました。

今もなお、沖縄で、広島で、長崎で、奥尻で、阪神・淡路で、中越で、東北で、熊本で、そして全国で、さまざまな被災や被害の傷あとに苦しむ多くの方々のこころの平安をお祈り申しげます。また、志のなかばで、あるいは、精一杯生き抜いて逝かれた方々のご冥福を祈り、またその方々にお会いできるときに、自分がどう生かされてきたかをお伝えすることができるように精進をしたいと思っています。

「世界は心的外傷に満ちている。”心の傷を癒すということ”は、精神医学や心理学に任せてすむことではない。それは社会のあり方として、今を生きる私たち全員に問われていることなのである。」安克昌「心の傷を癒すということ」より

最後までお読みいただいた方、どうもありがとうございました。