【研究集会情報】三人寄れば文殊の知恵

皆さまこんにちわ。
日本心理教育・家族教室ネットワーク第25回研究集会in山梨の大会メインビジュアルは岡本裕雅氏による仏画「三人寄れば文殊の知恵」です。岡本裕雅氏のインスタグラムはこちら

 そもそも文殊菩薩さまは、仏教の教えの中では知恵を象徴する存在として知られています。「文殊」はサンスクリット語 Mañjuśrīの音写の略とされています。初期の大乗経典、法華経、般若経典においては、般若=智慧を完全にそなえて、釈迦仏に代わって説法を行ったとされています。その智慧は仏教における大切な「空(くう)」に立脚する問われています。「空」とは、たとえば人間は様々な要素が集合してできたものであり、それ自体の本質は存在しない(人空)、また、 この世に存在する一切のものは因縁によって生じたものであり、不変的な実体ではない(法空)ものであって、我体・本体・実態と称すべきものはなく、すべては空しい(むなしい)ものであるという、仏教全般に通じる基本的な教理です。絶対的な「真」も「偽」もなく、世の中は流動的なものであるのだ、と。

 私がこのことを知ったときに浮かんだのは、オープンダイアローグなどに関連して語られることのある「中動態」のことでした。現在、私たちは語る言葉を「能動態vs受動態」つまり「する・される」で語っていますが、仏教の由来であるサンスクリット語や古代ギリシャ語では、言葉は「能動態vs中動態」であったとされています。 する・される、の言語体系は行動の責任(accountability)の有無を問うような近代語のように思いますが、かつて、「能動態vs中動態」だった時代には「中動態」は主語がその座となるような家庭を表しており、「能動態」は主語から出発して、主語の外で完結する過程を示しているとわれていました。

 このことについて、國分巧一郎氏は「能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる。」と明確化しています。ここで注目されるのは「能動態vsです中動態」の世界では、能動に付き纏っていた意志という概念が存在していなかったという事実です。意志は責任につながるのですが、古代にはそのような言語の使い方がなかったと考えられるのです。

 文殊と「空」の話に戻れば、すべてのものが多重性を持って変化し続ける世界観において、文殊の知恵とは、問題の原因を探り当てることによってその問題を解決ないし解消することや、正解を見出して責任を果たすことではないということです。

 そこで「三人寄れば文殊の知恵」ということわざについて考えてみます。文殊菩薩さまは智慧の菩薩さまであるので、「三人寄れば文殊の知恵」というと、一人一人はそこまで優秀でなくても、3人も集まれば文殊菩薩のようなすぐれた知恵が出るものだ、という意味だと考える向きがあります。つまり、毛利家の3本の矢のように、知恵が3つ集まると3倍強力な知恵になる、という考え方です。しかし、3人3人集まると、単なる知恵の和ではなくて、よりよい相乗効果が生まれます。みんながそれぞれ持つ経験や考えを合わせると、一人では思いつかない素敵なアイデアが生まれるという意味が込められているのだと私は思います。

 心理教育における智慧の創造は、さまざまな体験と語りからの学びによって、ご参加された皆さまの内側に湧き上がってきたものから感じていただけるように思います。

 

メンタルヘルスに関心のある方はどなたでも参加できます。

ぜひ大会の会場でお会いしましょう!

📍詳細・申込(Peatix) https://peatix.com/event/4545458

📍公式HP https://yamanashi25th-jnpf.net/index.php

メンタルヘルスに関心のある方はどなたでも参加できます。

ぜひ大会の会場でお会いしましょう!

※ SNSにもいいね!とシェアをお願いします

📍大会公式Facebook https://www.facebook.com/groups/1080532390515870

📍心理教育研究集会X  https://x.com/shinrikazoku24

📍大会実行委員会X   https://x.com/Jnpf2026_kofu