緊急事態再発出によせて

昨年末からの新型コロナウィルスの全国的な感染拡大を受けて、政府は1月8日~2月7日まで埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県に、さらに1月14日からは栃木県、岐阜県、愛知県、京都府、大阪府、兵庫県、福岡県も加えて11都府県に緊急事態の再発出を行うこととなりました。一部の報道では、政府与党は今後さらなる新型コロナウイルス感染対策強化を考えているようです。感染者が入院勧告を拒否した場合に感染拡大は抑えられないために、感染症予防法を改正して刑事罰を科して実効性をあげる方向で検討に入ったといわれています。また、この法案では無症状や軽症の感染者に対する宿泊・自宅療養の義務化も視野に入れて、通常国会に提出する意向だときいています。

かつてハンセン氏病が国家をゆるがす感染症とみなされていた頃、戦前の内務省が作成した「癩の根絶策」に基づいて、1931年に「癩予防法」が改正されました。この改正では在宅患者を含めた全患者が隔離対象となり、絶対隔離政策の基盤が整えられましたが、この背景には1929年から広まっていた「無癩県運動」がありました。この運動は、全国の警察、方面委員、宗教者、愛国婦人会らによって行われましたが、その目的は患者を摘発、排除し、地域から患者を一掃することにおかれました。この運動によりハンセン氏病に対する恐怖心があおられ、患者や患者家族の差別、迫害が助長されました。この強烈な隔離政策推進は国際会議や国際連盟報告とは異なっていたと今日では指摘されています。ハンセン氏病および患者は恐ろしいもので、一旦罹患したならば隔離以外方法はないとの社会的雰囲気が醸成されました。さらには、日本と海外の諸国を比較して、ハンセン氏病り患者の数が国の格を表すかのような喧伝もなされ、より苛烈な対応策が必要であるという世論形成において報道機関の影響も少なくないものがあったとされています。

この運動は第二次世界大戦による中断をはさんで、戦後も持続しました。戦前の無癩県運動は警察と一般市民の密告が主体でしたが、戦後の無癩県運動は保健所が活動の主体となったものでした。戦後は新たな日本国憲法が制定されたので戦後の無癩県運動の方が人権侵害が少なかったように思えるかもしれませんが、1953年の「らい予防法」制定では強制隔離は継続され、強制入所、患者の従業禁止、汚染場所の消毒、物件の消毒廃棄、入所者の外出禁止、所長の秩序維持などが規定されましたこともあり、実は戦後無癩県運動の方が強制隔離運動は徹底していたとされています。しかし、1948年にはプロミンの治療効果が確認されており、1955年にはハンセン氏病患者の救済と社会復帰のための会議においてハンセン氏病は伝染力が微弱であることの確認、差別待遇的諸立法の撤廃、在宅治療の推進、早期治療の必要、社会復帰援助等を内容とする「ローマ宣言」がを採択されています。時とともにさまざまなエビデンスと乖離していることが明らかになり、のちに憲法違反であると指摘されながらもいったん制定された「癩予防法/らい予防法」を廃止して人権侵害の見直しが行われたのは1996年でした。本当に長い年月がかかりました。

現在流行している新型コロナ感染症はもちろん別の感染症であり、疫学も社会の公衆衛生に関する考え方も時代の変化により異なっています。防疫対策を軽んじる気持ちは全くありませんが、それでも、今一度、ハンセン氏病の歴史から私たちは学ぶ必要があるのではないでしょうか。

熊本県の報告書は一読の価値があると思います。
熊本県「無らい県運動」検証委員会報告書が完成しました。 – 熊本県ホームページ (pref.kumamoto.jp)

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