ヨゲンノトリ

山梨市にある差出磯大嶽山神社に「ヨゲンノトリ」の御朱印を授かることができると聞いて、参拝に行ってきました。
差出磯大嶽山神社→http://www.daitakesan.jp/menu1.html

今から160年ほど前の安政5(1858)年、インドから始まったとされる世界的なコレラの流行は鎖国中のわが国にも到達し、長崎でコレラが発生して全国に蔓延、7月には江戸にも甲斐国でも感染が拡大しました。市川村(いちがわむら、現山梨市)の名主で、村の用事で甲府に出張していた喜左衛門は「暴瀉病流行日記(ぼうしゃびょうりゅうこうにっき)」で、甲府でも多くの人々が毎日亡くなっていく様子を目にしたことを書き残しています。この7月には水害もあって多くの人が亡くなり、喜左衛門はその対応にも追われていました。 8月初頭、喜左衛門が聞いた噂に現れたのが「ヨゲンノトリ」でした。日記には次のような内容がかかれています。(現代語訳)

図のような(頭が2つある不思議なかっこうの)烏が、去年の12月に加賀国(現在の石川県)に現れて言うことには、「来年の8月・9月のころ、世の中の人が9割方死ぬという難が起こる。それについて、我らの姿を朝夕に仰ぎ、信心するものは必ずその難を逃れることができるであろう」。これは熊野七社大権現のすぐれた武徳をあらわす烏であると言われている。今年の8月・9月に至り、多くの人が死んだ。まさしく神の力、不思議なお告げである。

その後も死者の数は増え続け、甲斐善光寺はじめとして多くの寺社で病魔退散を祈る祈祷や祭礼が盛んに行われ、お盆過ぎからは農民も商人も社会活動をやめて、ひたすら念仏を唱える日々が続いたとあります。病は狐のせいに違いないと、油揚げと赤飯が森に供えられたりしましたが、9月に入り流行はやや収束したようですが、甲府では683人の死者が出たとまとめられています。しかしその後も各地で小規模なクラスターを繰り返したのち、文久2年(1862)に再び流行があり、この第2波は麻疹の流行ともあいまって第1波の数倍の死者が出、3年間の死者は約10万人だったとされています。人々がなすすべもなくなくなっていくコレラは「コロリ」とも呼ばれて恐れられ、当時の武士の日記では、コレラの対処法を示した幕府の御触書では、体を冷やさず、暴飲暴食を避け、消化の良い物を食べるという予防法を紹介。治療法として、飲食を慎み、体を温めるほか、「芳香散(ほうこうさん)」という薬を飲んだり、激しい症状には焼酎に樟脳(しょうのう)を混ぜたものや「芥子(からし)泥」を塗ったりするよう説明しています。

「暴瀉病流行日記」は山梨県立博物館に展示されており、「ヨゲンノトリ」という名前は後世の博物館員が付けたものです。そして、今回の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行を機に、ネットを通じて一躍脚光を浴びた「ヨゲンノトリ」は、疫病に苦しめられた甲斐の人々が救いを求めた結果現れた、不思議な存在で、この絵を拝むと病気にかからないと信じられたのです。

「ヨゲンノトリ」については山梨県立博物館のHPに解説が記されています→http://www.museum.pref.yamanashi.jp/3rd_news/3rd_news_news200410.html#yogennotori

最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。