1951年に山梨県で起きたこと
- 2020.05.14
- 日記
山梨県では、新型コロナ感染症対策の官民の努力が奏功して、緊急事態宣言の対象からはずれる見通しとなっているようです。経済活動再開への期待もありますが、他国の状況からみて、社会活動再開後の第2波への懸念もあると聞いています。
かつてのわが国における感染症対策の過ちとして「無らい県運動」がありました。これは文字通り、今でいうハンセン病患者がいない県、すなわち、すべての患者を隔離して市中に患者がひとりもいなくなった件を意味していました。1931年の「癩予防法」公布により絶対隔離政策がとられるようになって以降、「無癩県」を実現するため、患者を摘発して療養所に送り込もうとする官民一体となった運動が「無らい県運動」でした。
この運動では、近隣が相互に監視して患者密告を水書しており、「広範な検査による感染者を恐ろしい存在とあおりました。1950年度以降は国立療養所の病床は1000床増加し、一斉検診の再開とそのための「らい患者及び容疑者名簿」の作成などが求められました。特に、「らい患者及び容疑者名簿」の作成においては、「一般住民よの投書」などの実施もあげられ、1952年4月には国立療養所の1500床増床を前提に、厚生省は各都道府県知事に宛て「登録未収容患者の完全収容」を目標に揚げるに至ったのです。
こうした「無癩県運動」渦中にあった1951年1月27日深夜、山梨県のとある村でハンセン病患者家族一家9人の心中事件が発生しました。1月30日付山梨日日新聞によれば、この一家は、27日に長男が県立病院でハンセン病と診断されました。診断した医師は早く治療しなさいと、厳封した書類を保健所に出すように言いい、本人に持たせました。
ところがその診断書を受け取った保健所が公表してしまい、その方の周囲を縄張りして、その日の夕方には村役場から家中を消毒すると通告されたところ、それを苦にして、両親と兄弟姉妹合わせて9人が青酸カリにより服毒自殺したとのことでした。父親が社会に宛てた遺書には「国家は社会はそうした悲しみに泣く家族を守る道は無いでせうか」と書かれてあったそうです。この事件は、全国の患者さんの協議会に大きな衝撃を与えました。
当時の「無らい県運動」による患者の監視と摘発、そして徹底的な消毒、こうした実態が,ハンセン病への恐怖を住民に植え付け、患者を絶望の淵へと追い込んだという認識は、その一端を担ったマスコミにも乏しく、2月4日付朝日新聞夕刊では、「ライ病が伝染病であり、病人を隔離し十分に消毒さえしたら伝染のおそれはないことを、村民の全部が知っていたならば、こんな悲劇は起こらなくても済んだはずである」と論評しました。ここには、強制的な隔離と必要以上の消毒が恐怖をあおり、このような悲劇を生み出したという視点はなく、記事は隔離と消毒の徹底という「無癩県運動」を推進する論理が一貫してこのような事件に繋がっていることを黙止したのです。
同じ県にお住いの皆さま、新型コロナウィルス緊急事態宣言が解除となりそうな見通しにようやく至った今、69年前におこったことの内容をお読みになって、なにかお感じになることと思います。我々は自分も他人も尊厳を大事にしながら生きていきたいと願っていると思います。悲しい心中事件から長い年月を経た今、私たちはもう一度、歴史から学んでいくべきではないでしょうか。
最後までお読みいただいた方、どうもありがとうございました。
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